Netflixで『First Love 初恋』というドラマを見て、お店にナポリタンを食べに行った2月の始まり。

ドラマが公開される前から、なにやらこれは面白いぞというようなことをどこかの記事で見たり踊らされたりしていたのだけれど、あっという間に通り過ぎていく毎日の中でなかなか集中して映像に向かえる余裕がなく、随分と時間をかけて全話を見た。

『First Love 初恋』は、満島ひかりと佐藤健が主演の王道なラブストーリーで、映像が綺麗でいちいちハッとしてしまう。特に、物語りの舞台でもある北海道での冬景色のシーンなどはどれも目を丸くしてしまうくらいで、何話目かで高校生の頃の主人公カップルが雪の中を歩きながらリスの話をしているシーンの、そのとても微笑ましくて尊い場面に、思いがけず涙が滲んだ。

 

わたしは普段からとにかくおやつを食べていて、いろいろとおやつを買ってはそれらを家のあちらこちらに置いて、そのことを忘れて、また新しいおやつをせっせと買う…ということを日々の日課としていて、いつも「リスみたいやなぁ…」と呆れられたような、それでもどこか慈しむような感じで笑われることが多かった。

わたしが忘れてしまったものは、リスが木の実を埋めて忘れてしまうのとは違って、新しい芽を出したり森をつくったりなんてしない。

いろいろなこと、わかってはいるのに、すぐに忘れて、たまに忘れたふりなんかもして、どうしていつもいつも同じところで躓いてしまったりするのかな。

 

このドラマ、最終回はなんと舞台がアイスランドで、その思いがけずにもハッとして、いったいどんな気持ちでこの物語りを自分の中にしまったらいいのかな…なんて思いながら、ナポリタンを食べた。劇中の満島ひかりが泣きながらナポリタンを食べるシーンも、きっといろいろな気持ちが混じり合っていて、それで美しかった。

 

わたしにとって人生ナンバーワンのナポリタンは、やっぱりあのナポリタンかな…とか考えたりしながら。

 

 

2023年。新しい年。

 

2022年も暮れていこうとする中、12月中旬から下旬にかけて寝込んでしまい、結局、新しい年が明けてもぼんやりとテレビを見て過ごしていることが多かった。

この年末年始は、『ドキュメント72時間』という番組の歴代ベスト10と年末スペシャル2022の特番を続けて見て、2022年放送分のランキング1位では思いがけず号泣する。

わたしは、わたしの手に入れられなかったものを、きっと永遠に恋しく思うのだと思う。

「恋しい」という言葉は、一度そこにあったものがなくなってしまって、それを思い出したりして使ったりする言葉なのかもしれないけれど、わたしのこの感情には「恋しい」というものがしっくりくる。

手に入れられなかった後悔を、これからも罰が当たったみたいに抱えながら生きていくのかな…そんなことを流れていく映像を追いながら思った。

それでも、美しい光景が、かけがえのない時間が、こぼれ落ちていきそうなくらいの勢いで、わたしの日常にはある。その一瞬を取りこぼさないように、なるべく鮮明に覚えていられるように写真を撮っているのだけれど、それらがあまり意味を持たないことにも気づいていたりして…

 

運命は、考えれば考えるほどわからないもので、きっと運命って全部がそうで、なにか一つ違っていると、それがどんな小さなことでも少しずつ変わっていってしまう。

わたしたちは、あとどのくらいの幸せと後悔を積み重ねて、生きて死んでいくのかな。

 

前の日に買って来たパンを楽しみにして目覚めた朝、パンを少しトースターで温めて頬張る喜び。

離れた瞬間から遥か遠くに行ってしまいそうな感覚を、必死で手繰り寄せて、そこにあった幸せと来るべき幸せを大切に大切にしていく。きっと、わたしの人生は、これの繰り返し。

 

寂しくない人なんて、いないから。

気が付くと、10月も過ぎて。

 

先日、ある人から「ヨシダさんは、展示空間の真ん中に、ぽんって自分の心を置くでしょ。そういうこと、わたしにはできない」と言われて、「えっ…」と思う。「そういうこと」を、わたしは展示でしているのかな…そうなのかな…。

20代初めの頃、わたしにはとても会いたい人がいて、数年間、その人をテーマに作品を制作していたことがある。結局、それから20年くらい過ぎた今もその人に会ったことはないのだけれど、会えていないことが希望というか…会えないからいいというか。会えてしまうと、今でも自分の中で続く物語りに終わりがきてしまうことが、さびしいのかもしれないな。

わたしはきっといろいろなことを美化して作品をつくっていて、それが防衛機制のような作用もしているのかもなって思ってきたけれど、展示空間にぽんって自分の心を置くって、なんて無防備なんだろう。しかも、隅じゃなくて、真ん中に。

 

幼稚園へ通っていた頃。昼食の時間になると、お弁当箱の隅にいるうさぎりんごに、よく顔をほころばせていた。母がりんごの皮をうさぎに見立ててカットしてくれたものを、よくお弁当箱の隅に詰めてくれていたのだ。

隅っこのそれを愛でながらお弁当のごはんとおかずを食べて、フルーツはデザートだからって、なぜかちゃんと最後にうさぎりんごを食べる。大抵、皮はかたくて美味しくないから嫌なんだけど、食べるまでがいつもウキウキとして嬉しかった。

思えば、全部そういうことなのかもしれないな。

きっとずっと、わたしは愛でていたいのだろうな。

永遠の片想いが、好きなのだ。

 

11月っていう、一番好きな季節の中で。

去年の秋は、八戸で来る日も来る日もりんごを食べ続けていたなぁ…今年は随分と西まで来たなぁ…そんなことを思う、11月のおにぎりの夢。2022年11月、うさぎりんご編。

遠い昔に。母から聞いたことのある、父と母の新婚旅行の話。今でも、思い出すことがある。

ただただ幸せそうなその話に、まだ子供の頃のわたしはうっとりとしていたんだっけな…

当時の若々しい父と母の写真を見て、あまり変わりのない父の姿と、絶世と呼ぶにはオーバーが過ぎるけれどそれでも美しかった母の姿…女性がこんなにも変わり果ててしまうだなんて、人生にはいろいろとあるんだな、、、とか、これは子供ながらに何かしら確実に思っていた。

そんな所々抜け落ちて自分の中でも美化されているような思い出を、いつものようにちょっと興奮気味に話していると、昭和40年代には宮崎への新婚旅行が流行っていたことを教えてもらう。

そうか。日本中の若者が憧れていた九州の地を、自分の両親も流行りに乗って目指したのだな。

夢とか希望とかも、きっといろいろあって、それは両親にとって確かに幸せだったのかもしれないな。

そんなことを、もう二度と出会うことのないかもしれない通り過ぎて行く風景の中で思う。

 

子供の頃から今もずっと疑問でしかない“家族”というものを、大人になれば自分で選んで選ばれて、新しく築き上げられるんだと思っていた。

それで、これまでの家族は白紙みたいになるんだって思ってた。だけど、それは全然違う。

 

ワンルームの小さな台所で、ひとりで作って食べた焼きうどんの味は、なぜか泣きたくなるくらい美味しくなくて、どうしようもなくふたりを想った。

昔から、みんなが当たり前にできているようなことを、わたしはできない。

人生をやり直すスイッチがあれば、わたしは押すのかな。

ロールプレイングゲームの保存みたいに、簡単に上書きできたら、わたしはするのかな。そう言えば、ほんとのゲームで、わたしはボスキャラにボッコボコにやられた後で、直前にセーブしていなかったことに青ざめていたんだっけな…

そうだな、わたしは押さないだろうな。だって、ここまで来られたんだから。だから、押さない。

 

桃鉄は、いいゲームだよなぁ。久しぶりにやってみたい。2022年9月、おにぎりの夢。

おにぎりの夢、2022年8月。

 

なにか、ものすごく幸せな…大好きな人の、なにか、とてつもなくいい話で…羽が生えたみたいに自分の体が軽くなって、世界が幸せという名の光と色で満ちに満ちている…

そんな夢を見て目覚めた朝。だけど、目覚めたときには、もうその夢は遠退いて、思い出すことができない。一瞬にしてかなしみが襲う、あのいらん絶望。

 

今読んでいる武田砂鉄さんのエッセイ(『べつに怒ってない』筑摩書房)に、人の夢の話と旅行の話はさほど面白くないといったようなことが書かれてあるのだけれど、「えっ、そうなの?」と思ってしまった(他の話には、わりと「ふんふん」頷いてしまうのに)。

わたしは、昔付き合っていた男の子が「おはよう」よりも先に「あんな、オレ、今な…」と目覚めた瞬間いきなり夢の話をし始めるのを、よくケタケタ笑いながら聞いたものだった。だいたいがなにかと戦って勝利する夢とかで、なんでいつもそんなに戦ってんねん…と心配にもなっていたけれど。けど、そんな朝の時間が好きだった。

憧れていた人に、やっと出会うことのできた日。わたしは、その人に「これまで世界で見て来た中で、綺麗だった風景はなんでしたか?」といったような質問をしたことがある。彼は、すぐにオーストラリアでトロッコに乗った話をしてくれて、その詳細はもううろ覚えだったりするのに、その話を聞いたときのみずみずしい美しさは今も自分の胸の中で輝ききらめき続けている。

そう。わたしは旅の話を聞くのも、たまらなく好きだ。

 

けど、そうか。ここも、これも、さほど面白くない。というよりも、わたしは面白さのセンスなど持っていない。そもそも、面白さって、なんだろうな。

遠くも近くも、案外、綺麗で、ときどき悲しいくらいに汚くて、わたしたちは歳を重ねても夢を見たりする。なにかを目指したり、実際に旅へ出て、誰かに、その話を伝えたくなってしまう。

わたしたちはわたしたちのやり方で。

ピントは、いつもあなたに合わせて。

久しぶりに。

 

まだ少し先だけれど、秋の個展の準備を始めています。

個展といっても、過去作での展示。それでも、なにかこれまでとは違ったことがしたいな…とか、どうしようかな…とか。

大阪での個展は、2007年(!)以来です。

 

ここ数日、今回の展示の準備のために、久しぶりに昔の自分の文章を読み返していました。

アイスランドでの撮影記録を綴った手帳の脇には、現地で見た小さな草花の愛らしさについて書き記しています。また、強風に舞い上がる綿毛が、どれほど美しかったのかということも。

 

ショッキングな出来事が起こって。これまで、その「人」についてはあまり考えたこともなかったのに、「最後になに食べたのかな。それを美味しいなと思ったかな…。奥さんとの最後の会話はどんなんだったのかな…」とかを考えてしまった。

わたしの小さな小さな世界は、変わらずときどきビックリするくらい美しくて、自分のしょぼいごはんでも大好きな人と一緒に食べると「美味しいなぁ…」とか思えるのに、いつもこの世界のどこかではかなしい出来事が起こっている。

 

わたしは、歳を重ねる毎に、どんどんと弱虫になってきているように思うけれど、それでも、弱虫上等。持ち前の出っ張った腹も、なんか鏡見ていちいちビックリしてしまう首回りの老化とかも、まあ上等。

毎日ごはんを美味しく食べて、ちゃんと歯を磨いて眠る。

 

最近、改めて思うのだけれど、おにぎりとコーヒーは誰かが作ってくれたものが美味しいです。

おにぎりの夢、2022年7月。

いつまで続くか、わからんけど。